一般財団法人 英語教育協議会
ELEC(エレック)英語研修所
  1. [異文化交流の開拓者たち] 第12回「アメリカの大学を卒業した最初の日本人:新島襄」

[異文化交流の開拓者たち] 第12回「アメリカの大学を卒業した最初の日本人:新島襄」

エッセイ2016.12.14

 1860(万延元)年、徳川幕府は最初の外交使節をアメリカに派遣し、2年後には西洋の学術・技術を導入するため榎本武揚ら9名の留学生をオランダに派遣した。だが、幕府以外の藩からの海外渡航は禁止していた。それが解禁されるのは1866(慶応2)年になってからである。

 それでも志ある若者たちは、早くから海外に目を向けていた。1863(文久3)年には長州藩士の伊藤博文、井上馨ら5名がイギリスに渡った。海外渡航は禁止されていたから密航である。イギリスで圧倒的な国力の差を目の当たりにした彼らは、それまでの攘夷論を捨てて開国論を唱えるようになった。

 1865(慶応元年)には、薩英戦争でイギリス海軍の力を思い知らされた薩摩藩が15人の留学生をイギリスに送り出した。これも幕府の禁を犯しての渡航で、みな変名を用いていた。その中には後に初代文部大臣となる森有礼や、実業家として大阪経済を復興させた五代友厚らもいた。

 これらの幕府や藩からの派遣とは別に、個人で命がけの海外渡航を試みた人もいる。長州藩士の吉田松陰は1853(嘉永6)年、23歳のときにペリーの黒船を視察して西洋文明の先進性に感銘し、翌年ペリーが再び来航した際に密航を企てたが失敗し、投獄された。その後、彼は幕府が勅許なしに修好通商条約を締結したことに反対して処刑されている。

 

 新島襄も密航組の一人である。江戸の神田で生まれた上州安中藩士の新島は1864(元治元)年、箱館から密出国して念願のアメリカに渡った。彼の場合、その動機は他の人たちとは違ってキリスト教であった。聖書に出会ったのがきっかけとなって「福音が自由に教えられている国」に行くことを決意し、海外渡航を思い立ったのである。

 アメリカ船でボストン港に上陸した新島は、マサチューセッツ州のアンドーバーにあるフィリップスアカデミーに入学し、洗礼を受けた。その後アマースト大学に進学し、そこでは後に札幌農学校の教頭となるクラーク博士の化学の授業を受けている。クラークが来日を決意したのは新島襄という優秀な教え子との出会いがあったからでもあろう。8か月の札幌滞在を終えて帰国する際、クラークは京都に立ち寄って新島との再会を果たし、彼の創設した同志社英学校を案内してもらって、かつての教え子を激励している。

 1870(明治3)年にアマースト大学を卒業した新島は、日本人として最初のアメリカの大学の学士号取得者となり、その後さらにアンドーバー神学校でも学んだ。

 その間、1872(明治5)年に岩倉使節団がワシントンに着くと、新島は駐米公使森有礼の要請でアマーストからワシントンに赴き、使節団副使の木戸孝允の通訳を引き受けることになった。使節団はアメリカの開拓が急速に進展していることに目を見張り、その原動力はつまるところ人の力であること、そして、アメリカ人の人間性や能力を高めるうえで重要な役割を果たしているのが、信仰と教育であることを見抜いていた。

 使節団の中では文部省から派遣された田中不二麿が精力的に学校を視察した。彼は新島からも多くのことを学ぼうとし、新島もその諮問に答えて持論である善の教育や、魂の教育の重要性を説いた。こうして田中は次第に新島の教育論に共鳴し、宗教の自由を認め、聖書を教材としてではなく徳業の糧として学ぶべきものと考えるようになっていく。使節団のアメリカ滞在が終わると、新島はそのまま田中に随行してヨーロッパに渡って教育事情の調査を続け、さらに田中の報告書『理事功程』の編集にも協力することになり、結果的に明治政府の教育政策の立案にも重要な役割を果たすことになった。

 1875(明治8)年、滞米10年で帰国を目前にした新島は、維新以後の日本の学問が学術技芸に限られ道徳を廃してしまった結果、実利と利己主義に流れてしまったことを憂えて、キリスト教主義の道徳を教える学校をつくる決心をした。そして日本での宣教に従事するための宣教師の試験に合格すると、アメリカン・ボード(外国に宣教師を派遣するキリスト教組織)の年次総会で別れの挨拶をし、日本でキリスト教主義の学校を設立したいと訴えた。するとその場で五千ドルもの寄付の約束を得ることができた。

 帰国した新島は、さっそく京都に日本で最初のキリスト教主義による同志社英学校(現同志社大学)を開校し、その初代社長に就任する。この時の縁で、会津藩士山本覚馬の妹八重と結婚することになった。

 

 それから10年後、アメリカを訪問中だった新島のもとに内村鑑三が訪ねてきた。札幌農学校を卒業した内村は東京での結婚生活の破綻から失望落胆し、その精神的な打撃を癒すためにアメリカに渡ってきたのだった。内村と新島は、高崎藩と安中藩という違いはあるが、いずれも上州武士の出であり、ともに剛毅で正直一方の上州人気質の持ち主である。内村は新島の尽力によってアマースト大学への入学を許され、新島の恩師で牧師でもあるジュリアス・シーリー学長の薫陶を受けて、帰国後は新島と同じように宗教者としての道を歩むのである。

(草原克豪)

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