一般財団法人 英語教育協議会
ELEC(エレック)英語研修所
  1. [異文化交流の開拓者たち] 第13回「最初の女子留学生」

[異文化交流の開拓者たち] 第13回「最初の女子留学生」

エッセイ2017.01.18

 明治政府は多くの留学生を海外に送り出した。1871(明治4)年に横浜を出港してアメリカに向かった岩倉使節団一行107名の中には、ハーバード大学に留学して後に農商務大臣や司法大臣を務めた金子堅太郎、マサチューセッツ工科大学で学び後に三井合名会社理事長を務めた団琢磨、フランスに留学してジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』を日本に紹介した中江兆民など43名の留学生が含まれていた。

 その中には北海道開拓の官庁である開拓使がアメリカに派遣した5名の女子もいた。女子の派遣は開拓次官となった黒田清隆の肝いりで急に決まったもので、第一回の募集には誰も応募者がなく、第二回の募集で5名が決まったのである。黒田はその直前にアメリカを視察した際、駐米公使の森有礼から女子教育の重要性を指摘され、自身もアメリカの女性が実に生き生きと活躍している様子を目の当たりにし、北海道で女子教育を推進するための指導者を10年がかりで育てようとしたのだった。


 5人のうち最年少は佐倉藩士の娘津田梅子で、まだ6歳の少女である。次に若いのは3歳上の永井繁子、4歳上で10歳の山川捨松であった。この3人は異文化の暮らしにも順応し、帰国後も親友として協力しあい、日本の女子教育の発展に寄与することになる。

 あとの2人は出発時にそれぞれ15歳、16歳で、アメリカに着くとホームシックにかかり、病気にもなったためその年のうちに帰国することになった。

 津田梅子の父津田仙は明治維新の前年、幕府の軍艦引き取り交渉の通訳として半年間ほどアメリカに派遣された経験があり、第一回の女子留学生の募集で応募者がなかったことから、幼い娘を留学させることにしたのだ。

 梅子はワシントン郊外ジョージタウンにある日本公使館の書記官チャールズ・ランマンの家に住み込んで学校に通い、高校まで終えて、11年後に17歳で帰国する。だが、その時には彼女を派遣した黒田清隆はすでに開拓長官を辞め、開拓使も廃止されていた。文部省もアメリカ帰りで女性の梅子には何ら活躍の場を用意していなかった。アメリカで多感な思春期を過ごし、日本語も話せなくなっていた梅子にとって、帰国後の生活はまさにカルチャーショックの連続であった。

 そこで梅子は、これから日本が発展するためには何よりも女性の地位を高めなければならないと確信するようになる。そしてフィラデルフィアのフレンド派、つまりクエーカーのグループから支援を得て24歳で再度渡米し、フィラデルフィア市近郊のブリンマー大学で生物学などを学んで帰国。帰国後は、華族女学校(現学習院女子部)と東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)で教授を務めた後、自ら日本で最初の女子高等教育機関となる女子英学塾(現津田塾大学)を開設し、生涯独身を貫きながら、女子教育の振興に人生のすべてを捧げた。

 山川捨松は会津藩士の娘である。捨松の兄山川健次郎は、戊辰戦争で会津白虎隊に加わったが年少のため行動を共にできずに生き残り、会津藩の将来を託されて敵軍の参謀に預けられて育った苦労人である。この年に明治政府の国費留学生として一足先にアメリカに渡っていた彼は、イエール大学で物理学を学んで帰国し、その後は東京帝国大学総長、九州帝国大学総長、京都帝国大学総長などを務めるが、会津人の味わった苦労を思って贅沢を避け、1年中同じ洋服で通していたと言われている。

 捨松は兄の滞在するコネチカット州ニューヘイブンの牧師宅で英語を学んだあと、ニューヨーク州にあるヴァッサー大学を優秀な成績で卒業して、日本人女性として最初のアメリカの大学卒業生となった。赤十字社の活動に関心を寄せていた捨松は、その後さらに1年滞在を延長して看護学校で勉強して帰国するが、その時にはすでに20歳をとうに過ぎており、婚期を逸していた。ましてや、英仏語は堪能でも日本語は不自由で、そのうえ才気あふれる容姿端麗の女性とあっては、なおさら結婚相手は見付けにくかった。

 その彼女を再婚相手にと望んだのが、妻を病気で亡くしたばかりの42歳の大山巌だった。西郷隆盛の従弟で、維新後フランスに留学しており、後に元帥陸軍大将となる人物である。だが捨松の周囲はみな反対した。なぜなら大山こそは、かつて会津軍に砲撃を加え、その後の苦難の道を歩ませた張本人だったからである。しかし捨松は大山の人柄に惹かれ、周囲の反対を押し切って結婚の申し出に応じ、後に「鹿鳴館の貴婦人」と呼ばれるようになる。伯爵夫人となった捨松は、その立場から女子英学塾の顧問として親友の津田梅子を助け、後に理事や同総会長も務めるなど、女子英学塾への支援を惜しまなかった。

 永井繁子はヴァッサー音楽学校を卒業して10年後に帰国すると、まもなく留学中に知り合った瓜生外吉(アナポリス海軍兵学校で学び、後に海軍大将)と結婚。東京音楽学校(現東京芸術大学)、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)でピアノと英語を教え、また、夫とともに日米関係の改善のためにも尽力した。

(草原克豪)

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