[異文化交流の開拓者たち] 第20回 日系二世の武士道精神

2017.08.14

 1941年12月に日米戦争が勃発すると、翌年、日系米人は西部海岸から100km以上離れた奥地に立ち退きを命じられた。カリフォルニア州のマンザナー収容所である。

 のちに他の9収容所が完成するとそこにも移住していった。ツールレーク(カリフォルニア州)、ポストン(アリゾナ州)、ヒラリバー(アリゾナ州)、ミニドカ(アイダホ州)、トパーズ(ユタ州)、グラナダ(コロラド州)、ハートマウンテン(ワイオミング州)、ジェローム(アーカンソー州)、ロウワー(アーカンソー州)である。

 収容された日系人は約12万人である。3分の1弱は一世で、1924年までにアメリカに渡った約19万人の初代移民の生き残りであるが、彼らは帰化権を認められなかったので、米国籍は与えられていなかった。あとの3分の2以上はアメリカで生まれた2世で米国籍をもっているアメリカ市民である。にもかかわらず彼らは日系人という理由だけで軍ではなく収容所に送られたのだ。それは日系人に対する憎悪と恐怖心に煽られた明白な人種差別であった。

 こうした状況の中で、日系二世たちの間では、「戦争に加わって全力を挙げて戦うことが、両親である一世の帰化権確保につながり、二世自身あるいは彼らの子孫が日系米人として正当な地位を占める道につながる」という議論が高まった。彼らは、合衆国への忠誠を尽くすだけでなく、両親兄弟、子孫らのために戦うべきだと考え、軍正規兵として陸軍に配属してもらうことを嘆願したのである。

 こうしてヨーロッパ戦線に派遣された442連隊(3800名)は、はじめはイタリアで戦闘に参加したあと、フランス東部のアルザス地方で激しい戦闘を繰り広げ、ブリュイエールの町を解放した。現地のフランス人たちは、日系兵士を「USサムライ」と呼び、彼らの勇気と規律と礼儀正しい行動を賞賛した。彼らこそ真の武士道精神の体現者であった。

 ところが、その直後、ボージュの森で米国陸軍テキサス大隊211名がドイツ軍に包囲されると、442連隊は休む間もなく大統領命令でテキサス大隊の救出作戦を命じられたのである。この命令自体が差別的であった。それでも彼ら442連隊は、参加した1200名の兵士のうち800名以上の犠牲(216名が戦死、600名以上が重傷)を払いながらも、テキサス大隊211名全員の救出に成功した。

 しかし彼らへの差別はこれで終わらなかった。戦争が終わってもアメリカへの帰還を認められなかったのである。ようやく英雄としてアメリカに凱旋できたのは1946年7月のこと、終戦から1年もたっていた。このとき当初4千人を数えた連隊兵はわずか数百人を数えるのみだった。彼らを前にしてトルーマン大統領は、「諸君は敵と戦ったばかりでなく、偏見とも戦った。そして、勝った」とその勇気ある行動を称え、さらに「偏見との戦いは今後とも続けていかなければならない」と述べた。

 戦後、彼ら二世は自分の戦争体験を語らなかったが、学校などではじめてそのことを学んだ三世たちは、1970年代になって日系二世に対する強制収容という差別を一般アメリカ人に知らせる運動を展開した。それを受けた議会は「戦時における市民転住・抑留に関する委員会」を開いて実態を調査し、日系人に重大な人権侵害があったことを認めて、謝罪決議をし、大統領が署名するよう勧告した。提言のなかには、6万人の現存する該当日系人に一人2万ドルの賠償金を支給する案も含まれていた。この法案が議会で承認され、1988年、レーガン大統領がこの「市民の自由法案」に署名した。署名式でレーガン大統領は「あれは米国のミステークだった」と述べて公式に謝罪した。

 日系人兵士の武士道精神とアメリカ政府の正義感とが、アメリカ社会に根強くあった偏見による差別意識に打ち勝った瞬間であった。

 (草原 克豪)

参考文献:橋本明『棄民たちの戦場ー米軍日系人部隊の悲劇』、新潮社、2009