[異文化交流の開拓者たち] 第3回「蘭学から英学へ」

2016.03.30

 今でこそ英語が国際語と言われるが、江戸時代の日本にとって重要な外国語はオランダ語であった。オランダのみが長崎の出島を介して日本との通商を許されていたからである。

 その長崎で1808年、ある事件が起きた。オランダに代わってアジアの制海権を握ったイギリスの海軍フリゲート艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて、つまり国籍を偽って入港し、これをてっきりオランダ船と思って出迎えに出たオランダ商館員が拉致されたのである。長崎奉行所はオランダ商館員の解放を要求し、フェートン号の抑留または焼き打ちの準備を進めた。これに対してフェートン号側は水と食料を要求してにらみ合いが続き、結局、最後は双方が相手の要求を受け入れる形で、2日後にフェートン号は出港した。

 しかし、それだけではすまなかった。フェートン号の要求にむざむざ応じた長崎奉行は責任をとって切腹、長崎警備の任に当っていた鍋島藩の家老らも切腹。藩主鍋島斉直は100日の閉門を命じられたのである。

 この事件で幕府はイギリスに対する警戒感を強めた。そしてそれまでオランダ語しかできなかった長崎通詞にフランス語、英語、ロシア語も学ばせることにしたのだ。英語を教えたのは、軍隊時代にイギリスに滞在した経験のあるオランダ商館員ブロンホフである。こうして日本で最初の英語教師が誕生した。生徒たちは熱心に勉強し、1811年には日本初の英学書『韻厄利亜国語和解』10巻、さらに1814年には英和辞書『韻厄利亜語林大成』15巻を完成させている。「韻厄利亜」とはアングリア、つまりイギリスのことである。


 その長崎に1848年、アメリカ捕鯨船の若い船員ラナルド・マクドナルドが移送されてきた。彼は英領カナダ(現アメリカのオレゴン州)でスコットランド人の父とアメリカインディアン(チヌック族)部族長の娘との間に生まれた混血で、自分のルーツと教えられた日本に関心をもっていた。そこで日本に渡ろうとして捕鯨船で日本近海まで来て北海道の利尻島に単身ボートで上陸したところで捕えられ、松前藩から長崎に護送されてきたのだ。取り調べにあたったのは、代々オランダ通詞を務める家に生まれた29歳の森山栄之助(1820-1871)であった。

 森山は先輩たちの作った英和辞書で英語も勉強していたので、さっそく英語でマクドナルドに話しかけてみた。ところがそれがほとんど通じない。オランダ語訛りが強すぎたからだった。そこで長崎奉行は、森山ら14名の通詞たちにマクドナルドから本場の英語を学ばせることにした。

 こうしてマクドナルドは、日本で最初の英語を母語とする英語教師となり、長崎で7か月間を過ごしたあと、同じ市内に留置されていた13名のアメリカ人船員とともにアメリカの軍艦で本国に送還されることになった。その間に熱心に勉強した森山は、マクドナルドらを乗せた米軍艦との交渉ではもうオランダ商館の通訳を介することなく、自ら英語と日本語の通訳ができるくらいになっていた。

 1853(嘉永6)年、ペリーの率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航すると、森山は江戸に招かれた。ところが彼が江戸に着いた時には、ペリーが大統領の国書を幕府の役人に渡して江戸を離れたあとだった。そこでまた長崎に戻ってロシアのプチャーチンとの交渉の通訳を務め、翌年、ペリーが二度目に来航した際には、日米和親条約の締結に至るまでの難しい外交交渉の首席通詞として活躍した。さらに彼は、その後もプチャーチンとの日露和親条約交渉、アメリカ総領事として来日したハリスとの日米修好通商条約交渉において活躍し、単なる通訳にとどまらない外交官としての役割も果たした。これらの交渉では、正式の会談はすべてオランダ語を介して行われたが、森山は雑談の折などはもっぱら英語を使うほどに上達していた。

 彼はその後の各国との修好通商条約交渉においても、会談の通訳、条約文の翻訳、相手国の訳文との付き合わせなど、幕府の通訳・外交官として重要な役割を演じ、1862(文久2)年には、竹内保徳遣欧使節団にも参加してヨーロッパ各国を歴訪し、帰国後は外国奉行通弁役頭取に抜擢されている。

 ペリーの最初の来航時に首席通詞を務めた堀達之助も長崎のオランダ通詞だった。彼も英語に熱心に取り組み、1862年に日本初の本格的英和辞書『英和対訳袖珍辞書』(袖珍とはポケットの意)を刊行している。また、明治維新直前の1867年にはアメリカ人宣教師で医師のヘボンによる日本初の和英辞書『和英語林集成』も出版された。こうして日本はそれまでの蘭学の時代から、英学の時代へと移行していくのである。

(草原克豪) 


参考文献:吉村昭『海の祭礼』(文春文庫)
     江越弘人『幕末の外交官 森山栄之助』(弦書房)