[異文化交流の開拓者たち] 第11回「岩倉使節団が見た西欧世界」

2016.11.15

  明治維新後の1871(明治4)年、新政府は岩倉使節団を米欧に派遣した。大使には右大臣岩倉具視、副使として参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文ら政府の実力者、それに各省から派遣された書記官や理事官とその随行員からなる合計46名の使節団と18名の首脳随従者、43名の留学生など総勢107名という大部隊である。

 明治政府にとって重要な課題は、幕末の不平等条約を改正することだった。そのためにはまず内政を整備する必要があり、そのためには欧米の制度・文物を見聞し、その長所を採り入れながら日本の近代化を進めなければならない。そのための使節団派遣であった。諸外国で彼らは何を見聞きし、何を学んだのか。それは随行した久米邦武によって『特命全権大使米欧回覧実記』としてとりまとめられている。

 

 使節団が最初に訪問した国は、太平洋を挟んだ隣国のアメリカである。アメリカでは当初予定していなかった条約改正の本交渉まで行おうとして時間を費やし、結局、条約改正には至らないまま7か月近くも滞在することになった。だが、そのおかげで学校や工場はじめさまざまな施設を視察することができた。イギリスの滞在は4か月、フランスは2か月であったことを考えると、アメリカから受けた影響は極めて大きく、しかも最初の訪問国だけにその印象も強烈であった。

 多くのメンバーにとってサンフランシスコがはじめての外国体験であった。そこではホテルに着くなり西洋人の男女2、3人と一緒に小さな部屋に入れられ、「あっという間にドキンと動いて釣り上げ」られて驚いた。それがエレベーターというものであった。それ以上に驚いたのは、立派な紳士たちがホテルの廊下を行き来するのに、かならず夫婦で手を握り合ったり、夫が妻に対してまるで侍女か給仕のように振る舞ったりしていることだった。久米はこの光景に「欲望や感情を露骨に表すいかにも見苦しい習俗」であるとして反発している。それは久米だけでなく、儒教倫理とは異質の世界にはじめて接した使節団の共通した感想でもあった。

 アメリカ大陸を西から東に鉄道で横断すると、未開から文明へと開化が進んでいく様子がパノラマのように展開する。それを見て彼らは、アメリカの急速な発展ぶりに目を見張るとともに、その原動力は土地でも物財でもなく、それを開拓し活用する人の力であるということを強く認識した。だからこそアメリカ人は日曜日には教会に通って説教に耳を傾け、学校教育にも力を入れているのだと理解したのである。

 イギリスに渡った使節団は、なによりその繁栄ぶりに目を奪われた。それに比べればワシントンもニューヨークもまるで田舎町のようであった。同時にイギリスの富は石炭や鉄といった地下資源を掘り出して機械を作る工業と貿易とによってもたらされたものであることも見抜いた。同じ島国でありながらこの点で日本とは決定的に違っている。それを支えているのは政治である。イギリスは東洋と違って国民の生命や財産を保護することを基本にした政治を行い、それによって商工業を振興しているのだ。そのことを知って使節団はイギリスの議会政治についての認識も深めたが、他方でイギリスでは貧富の差が激しいことを目の当たりにし、複雑な思いを抱いた。

 フランスに入ると、そこにはイギリスとはまた違う世界があった。当時のパリはすでに今日の姿と変わらないほど出来上がっており、ガス灯に照らされてきらきらと輝くパリの市街は、煤煙の中をせかせかと走り回るロンドンとは違って「文明の中枢」の趣があった。ロンドンは世界の原料を輸入・加工し、大きな物を製作して再輸出するのに対して、パリはヨーロッパ工芸の流行の源として華麗繊細な手仕事を得意とし、高い付加価値をつけて売る商法を展開していたのだ。

 当時のパリには前年のパリ・コンミューンの砲弾のあとが生々しく残っていた。使節団の目には、フランス政府に反乱を企てたコンミューンの人々は「暴徒」あるいは「賊軍」と映ったようで、そのためかそれを弾圧した大統領チュールに対する評価は高かった。その一方で、フランス革命後の歴史をたどると、「フランスの人心は協和を保つことがむずかしく、80年間に国制を6回も改め」るなど、政情が不安定なことも見逃さなかった。

 鎖国時代に唯一交易を保っていたオランダでは、この小国が大国に伍して富強を保っているのは、勤勉で辛抱強い国民性と積極的に海外に出て貿易に努めた進取の精神にある、と久米は観察している。

 ドイツに行くと主産業は農業であった。農産物を輸出し、その利益で鉱工業を起こして貿易をしているのだ。その点において、同じ貿易国といっても英仏とは違っていて、むしろ日本に似ている。だから久米は「プロシアの政治や風俗を研究することは、英仏の事情よりも有益である」と記した。ただし農業中心とはいえ、日本と比べれば工業人口も多い。そのなかで使節団が目を向けたのは軍事産業であった。彼らは早速クルップの大製鉄工場で、大砲や小銃、砲車・砲床・砲丸・剣・野戦車などが生産されているところを見学した。ベルリンでは皇帝ウィルヘルム一世に謁見し、宰相ビスマルクとも会見している。ビスマルクは前年にフランスを破ってドイツ統一を果たしたばかりで、彼の「万国公法よりも力の論理だ」という言葉は使節団に鮮烈な印象を与えた。このように新興国プロシアの発展ぶりは使節団を驚かせたが、英仏に比べると市民の粗雑さや風紀の乱れも目立った。

 ロシアのペテルスブルクでは公候貴族の館は立派だが、車窓からの風景はわびしかった。日本ではロシアが世界の最強国であり、最も恐るべき国だと考えられていたが、こうして各国を回ってみると、実は最も強力なのは英仏で、ロシアはまだ政教一致で農奴制の体質を残した後進国であることを使節団は学んだ。

 イタリアでは、それまでロンドンやパリなどで見てきた西洋文明の華も、その源はすべてローマの街にあることを目の当たりにした。この古都で使節団は2千年にわたる文明興亡の歴史に想いを馳せたのであった。

(草原 克豪)


参考文献:久米邦武『特命全権大使米欧回覧実記』(岩波文庫)
     田中彰『岩倉使節団「米欧回覧実記」』(岩波現代文庫)
     泉三郎『岩倉使節団という冒険』(文春新書)