[異文化交流の開拓者たち] 第28回「『武士道』を愛読した大統領:セオドア・ルーズベルト」

 1900年にアメリカで出版された新渡戸稲造の『武士道』は、各国語にも翻訳されて多くの人に読まれてきた。アメリカ第26代大統領セオドア・ルーズベルトも愛読者の一人であった。

 日露戦争が勃発した1904(明治37)年の3月、開戦とともに終戦工作のためアメリカに派遣された前司法大臣の金子堅太郎と駐米公使高平小五郎が大統領の昼食会に招かれた。その際、『武士道』のことが話題にのぼったので、後日、高平公使から一冊贈呈したところ、大統領はこれを読んで感銘を受け、自分で何十冊も買い込んで家族や友人たちに配ったのである。

 大統領は5人の子供たちに対して、「日本の武士道の高尚な思想は、われわれアメリカ人も学ぶところがある。ただし、『主君に対する忠誠』という箇所は『アメリカ国旗に対する忠誠』と読み替えるように」と言ってこの本を勧めたという。

 これに先立つ3月1日、ホワイトハウスでは、柔道普及のため訪米した講道館四天王の一人・山下義韶とアメリカ人レスラーの他流試合が行われ、山下が自分よりはるかに大きいレスラーを関節技で抑え込んでギブアップさせた。これを見た大統領は、翌日、自ら山下から柔道の手ほどきを受け、すっかり柔道の魅力に取りつかれてしまった。そして山下を海軍兵学校の柔道教官に採用することにし、ホワイトハウスにも柔道場を設けて、自ら山下の指導を受けることにしたのである。

 当時アメリカは日露開戦とともに中立を宣言していたが、山下のホワイトハウス訪問に同行したワシントン駐在日本公使館付武官・竹下勇中佐は、山下のおかげでアポなしでホワイトハウスに出入りできるという破格の扱いを受けることになり、ロシアに関する情報収集活動にも大いに役立ったという。

 ルーズベルト大統領は、幼少時は病弱な体質だったが、それを克服するためスポーツに取り組んで、ハーバード大学在学中はボクシングに熱中し、その後も狩猟やアウトドアスポーツを愛好した冒険家として知られていた。その彼が日本の柔道や武士道に関心をもつようになるのは当然ともいえるが、それだけでなく、そこには若いころのある体験が深く関わっていた。

 まだ20代の頃、彼は最年少でニューヨーク州下院議員に選ばれて順風満帆の人生を歩み始めていた。ところが、ある日突然、朝に母を、昼には出産したばかりの最愛の妻を病気で失い、人生が真っ暗になるほどの無力感に襲われてしまった。そこで悲しみを癒すためにニューヨークを離れて西部のノースダコタに移り住み、何千頭もの牛を飼う牧場主となって大勢のカウボーイと2年間生活を共にし、酷暑極寒の中で自らに厳しい労働を課して心身の鍛錬に努めたのである。

 彼が柔道に魅せられ、『武士道』に感動したのは、そこに表れた日本人の勇気、忍耐、慎み、礼儀、名誉、忠誠などの中に、若い頃生活を共にして感銘を受けたカウボーイたちの勇敢な生き方との共通点を見出したからであった。

 ルーズベルト大統領は、日露戦争において表向きは中立を守ったものの、ロシアを牽制するため、実際にはさまざまな形で小国日本を支援した。そして日本の形勢が有利になったとみるや、日本側の要請に応えて、日露戦争を終結させるために仲介の労をとり、ニューハンプシャー州のポーツマス近郊にある海軍造船所を講和条約交渉の場として提供した。すでに国力の限界にまできていた日本は、アメリカの仲介によって救われることになったのである。彼はこの和平仲介の功績により、1906(明治39)年にノーベル平和賞を授与されている。これがアメリカ人として最初のノーベル賞であった。

 新渡戸の『武士道』は、大国ロシアに戦いを挑んだ日本に対する関心が高まった時期、西洋人にとって日本と日本人を理解するための恰好の教科書となったが、こうして日露戦争の終結にも貢献したのである。

 のちに岩波文庫版の『武士道』日本語訳を著した矢内原忠雄は、序文の中で、新渡戸が「本書に横溢する愛国の熱情と該博なる学識と雄勁なる文章とをもって日本道徳の価値を広く世界に宣揚せられたことは、その功績、三軍の将に匹敵するものがある」と称賛した。

(草原克豪)