[異文化交流の開拓者たち] 第29回「近代空手道の父:船越義珍」

 空手は沖縄発祥の日本武道である。今では日本国内はもとより海外にも広く普及し、世界各地で何千万人もの愛好家が熱心に稽古に励んでいる。2020年の東京オリンピックの競技種目にも採用されることになった。

 沖縄の唐手が本土に伝わったのは、今から百年近く前のこと。沖縄尚武会会長を務めていた船越義珍が上京して、文部省主催の運動体育展覧会で沖縄唐手を紹介したのである。船越は、柔道の創始者嘉納治五郎の招きで講道館でも唐手を披露した。そして嘉納の後押しを得て、そのまま東京に滞在して唐手の普及に尽くす決心をし、大学生を中心に指導を始め、唐手の名称も「空手」と改めた。こうして日本の空手は、大学の空手道部を中心に国内に広まり、戦後はさらに海外へと広まって、今日の隆盛を迎えるのである。

 ところで、沖縄唐手の起源については、武器をもつことを禁じられた琉球人が自衛のために徒手護身術としての拳法を編み出したと説明されることが多い。だが、この説は、どうやら根拠を欠いた俗説にすぎないようである。

 歴史を紐解くと、確かに琉球王朝は1609年に薩摩藩の侵攻を受けてその支配下に置かれたし、琉球人の武器所持が禁止されたことも間違いない。だが、士族階級の者が個人所有物として武器を持つことは自由だった。これに対して百姓や町人は、豊臣秀吉の刀狩以来の日本と同様に武器の所有を禁じられたが、彼らはもともと薩摩藩の侵攻の200年も前から、第二尚氏王朝の尚真王の時代から武器を持つことを禁じられていたのであって、薩摩藩によって武器を取り上げられたわけではなかった。そもそも薩摩藩の統治は琉球王国に大幅な自治を認める間接統治であって、民衆の抵抗運動などもなかったのである。

 それでは、沖縄唐手は一体いつどのようにして誕生したのだろうか。ここでまた歴史を紐解くと、薩摩藩の支配下に置かれた琉球王国は、その後260年間、一方では日本に帰属しながら、他方では独立国を装って中国との冊封・朝貢関係を維持して交易を続けていた。薩摩藩もそれによって中国交易の利益に与ることができるので、その方が具合がよかったのである。そうした状況の下で、宗主国である明国から琉球王国に派遣された武官たちによって中国拳法が沖縄に伝えられた。そして、それを学んだ琉球士族たちがさらに工夫を加えて、19世紀後半には「手」と呼ばれる沖縄独自の琉球拳法が確立したと考えられているのだ。

 中国拳法は江戸時代初期の日本本土にも伝わっていた。その結果、それまで組み討ちを主体にしていた日本の柔術にも影響を与えたが、それは主として当身技として柔術の中に吸収され、同化されていくことになった。これに対して沖縄においては、中国拳法がほぼ原形のまま継承され、そこから沖縄独自の琉球拳法へと発展していったのである。

 船越義珍は沖縄発祥の空手を本土に紹介しただけでなく、それを日本武道として発展させた大功労者である。その際に参考にしたのは嘉納治五郎の講道館柔道である。嘉納は、西洋伝来の近代スポーツの考え方を取り入れて、柔道を単に柔術の延長線上ではなく、「体育、勝負、修心」を目的とする新しい概念でとらえていた。船越も空手の目的を「体育、護身、精神修養」として説明し、それまで秘伝として伝授されてきた空手の技法をわかりやすく図解した教程本を作成し、段級制度も設け、有段者には黒帯を使用させた。

 二人が「修心」あるいは「精神修養」という言葉を用いて、ともに武道を通じた精神修養を重視したのは、偶然の一致ではない。実は嘉納は東京高等師範学校校長を務めた教育者であり、船越も長らく小学校教員を務めた教育者であった。そのような二人にとって、武道の究極の目的は、自分自身を磨いて社会に貢献することであった。

 そのため、船越は、技だけでなく、勇気・礼節・廉恥・謙譲・克己などの美徳を磨くことの重要性を説いた。そして空手の稽古で心掛けるべき大事な教えを五項目にまとめ、それを道場に掲げた。それが以下の「道場訓」(松濤五条訓)である。
 一、 人格完成に努むる事
 一、 誠の道を守る事
 一、 努力の精神を養う事
 一、 礼儀を重んずる事
 一、 血気の勇を戒むる事

(草原克豪)