[異文化交流の開拓者たち] 第15回「密航者から初代文部大臣になった森有礼」

 日本の近代教育制度を完成させたのは初代文部大臣の森有礼である。森は幕末に薩摩藩が幕府の禁を犯してイギリスに派遣した15人の留学生の一人であった。

 そのころアメリカから宗教家のトーマス・レイク・ハリスがロンドンにやってきた。森はその感化を強く受け、5人の留学生仲間とともにハリスの主宰するにニューヨーク郊外の教団のコロニーに移って、労働奉仕を中心とした共同生活の中でキリスト教への関心を深める。その後、王政復古の報に接した森は、ハリスの勧めもあって祖国再建への強い使命感を抱いて3年ぶりに帰国することになった。

 戊辰戦争の最中に帰国した森は、さっそく新政府の実力者である岩倉具視らに会って西洋文明の実態を伝え、それを日本に移植すべきだと訴えた。こうして彼はその知識と語学力を買われて要職につくのだが、その意見は急進的であった。新政府が神道を事実上の国教にしようとして神仏分離を促し、キリスト教を弾圧していることに対して批判的なばかりか、藩を廃止して郡県制を設置することや、刀を捨てることなどまで強く主張したのである。藩の廃止はその後1871(明治4)年に廃藩置県として実現するが、廃刀論は猛反対にあって否決され、森は自分の未熟さを反省して辞表を提出し郷里に帰った。しかし、1876(明治9)年に廃刀令が布告され、これにより武士の時代は名実ともに終わるのである。

 その間に森は、1870(明治3)年、23歳の若さで初代の駐米公使である少弁務使に任ぜられた。その森をアメリカに訪ねてきたのが、開拓使の次官で郷里薩摩の先輩でもある黒田清隆である。北海道を開拓するためにアメリカ人専門家たちの手を借りようとしたのだ。このとき森は黒田に随行して農務省にケプロン長官を訪ね、彼を開拓使顧問として日本に招聘することに成功する。さらに森は黒田に女子教育の重要性を熱く説いた。黒田もアメリカの女性が生き生きと活躍している様子を目の当たりにして、北海道においても女子教育を推進するための指導者を育てる必要があると確信した。こうして黒田は帰国後さっそく5人の女子留学生を岩倉使節団に送り込み、森はその岩倉使節団をアメリカで出迎えることになる。

 その後、帰国した森は福沢諭吉、西周らとともに欧米式学会を真似た明六社を結成し、「妻妾論」を書いて妻と妾を同列に扱う当時の社会的風潮を批判し、一夫一婦を主張した。そして自ら広瀬常という女性と「余念なく相愛して夫婦の道を守る」という婚姻契約書を交わして洋風の結婚式を挙げ、周囲を驚かせている。

こうした一連の言動からも、森有礼はそれまでの藩中心の世界観や儒教主義的道徳観から抜け出て、新しい世界観に基づく国家意識とキリスト教的な信仰に基づく倫理道徳観を身につけた、まさに時代の先を行く合理的思想の持ち主であったことがわかる。彼はさらに、日本が国際的な独立を保つためには英語の習得が不可欠だとして、日本語を廃止して英語を国語にすべきだという「日本語廃止論」まで唱えたが、これはさすがに評判が悪かった。

 その後、森は清国駐在公使、さらに英国駐在公使に任命されるが、本人は外交官よりも文部省での仕事を望んでいた。そしてついに文部省御用掛となり、1885(明治18)年、内閣制度の発足とともに、第一次伊藤博文内閣の初代文部大臣となったのである。閣僚中最年少の38歳であった。彼はそれ以前から教育を通じて国民を啓蒙することの重要性を説いていたが、同時に、教育は国家の繁栄のために最も有効な手段だとの考えももっていた。そのため大衆教育だけでなく、指導者を養成する教育制度を確立する必要があると判断し、さっそく1886(明治19)年に帝国大学令を制定した。

 帝国大学の母体となったのは1877(明治10)年に創設された東京大学だが、両者の間には、天と地ほどの違いがある。帝国大学にはそれまで文部省以外の官庁が所管していた法学校、工部大学校などの専門教育機関が組み込まれ、法科大学、医科大学、工科大学、文科大学、理科大学の5分科大学で構成される総合大学となったのである。後に駒場農学校と東京山林学校も合併して帝国大学の農科大学となった。こうして西洋の知識はすべて帝国大学を通じて組織的に吸収され、そこから他の学校へと普及していく仕組みが出来上がった。

 次いで森は、中学校令、小学校令、師範学校令も相次いで制定して、近代国家としての教育制度を確立した。中学校令では、5年の尋常中学校の上に3年の高等中学校(後に高等学校、いわゆる旧制高校)が設けられることになった。これによって小学校から帝国大学に至るまでのルートが出来上がり、国民啓蒙のための教育と相まって、国の指導者を養成する仕組みが完成したのである。

 教育における教師の役割を重視した森は、師範教育の指導精神として、順良、信愛、威重の三気質を掲げ、規律ある厳しい集団生活の中で教員としての自覚と人間性を高めることの重要性を説いた。さらに教育の政治的中立や無宗教性を主張したところにも、近代的国民の育成を目指した森の開明的・合理主義的思想が表れている。

(草原克豪)

■参考文献
犬塚孝明『森有礼』吉川弘文館