Teaching Is a Work of Heart

中島 利恵子
新島学園中学校・高等学校教諭

 27年前、私は群馬県で英語の教員になりました。最初に赴任した先は実業高校でした。農業科、機械科、工業科、生活科の4つの科がありました。元々農業が主体となる学校で、農業科の教員が10人ほどいる一方で英語科の教員が2人、という学校でした。数か月前まで、修士論文を書きながら、「先行研究」「口頭試問」などと言っていた私にはそれは大きなギャップでした。

「英語、いやだ~!」と大きな声で言っている生徒、すぐに机に突っ伏してしまう生徒を前に私は途方にくれました。「この人たちに英語を教える意味があるのだろうか」とさえ思いました。 毎日、必死で授業に行き、一生懸命やってみるのですが、暴言を吐かれたり、舌打ちをされることもありました。今考えると、よく辞めなかったと思います。なかなかハードで奮闘した新任時代でしたが、今の英語教師としての自分の土台は、間違いなくあの実業高校で作られたとしみじみ感じています。そして当時の生徒たちに心から感謝しています。

 私は、大学進学を目指す生徒たちが多く在籍する学校、いわゆる「進学校」に最初から赴任したわけではなかったので、「何のために英語を勉強するのか」「何のために英語の授業があるのか」という本質的な問題に向き合わざるをえませんでした。大学入試が目の前にある生徒を教えるのは、ある意味動機づけが楽かもしれません。「合格するために、これを覚えるんだよ」と言えば、がんばって勉強する生徒が多いのは確かです。もし私が、進学校に最初から赴任していたら、今とはまったく異なる価値観を持つ英語教師になっていたかもしれません。

 1年目で、授業で苦しんでいた時に、ある先輩がこう言いました。「中島先生、英語を教えようとしているでしょ。英語を教えるのではなくて、英語を通して『人間教育』をするんだよ」私はハッとしました。なぜなら、一生懸命、単語を覚えさせようとしたり、音読をさせようとしていたからです。私の視点は彼らの「英語力」を上げることだけに集中していたのだと思います。

 私は考えを改め、授業や、授業に対する自分の気持ちも変えていきました。先輩のアドバイスを受けて授業に持ち込んだのは、Robert Fulghum氏の “All I Really Need to Know I Learned in Kindergarten”でした。この本の中に書かれている言葉を一回の授業で1つ紹介していきました。一つ目の言葉は、 “Share everything”、次は、 “Play fair” 、そして次は “Don’t hit people”と続きます。これらの言葉は生徒たちにとても響いたようです。暴れん坊の生徒に向かって、数人の生徒が “Don’t hit people!”と言っているのを目撃して私は思わず笑ってしまったのを覚えています。「先生、この間教えてもらった言葉がすごく良かった」と言われました。何も言ってないのに言葉の書かれたプリントを一生懸命ノートに貼っている生徒を何人も見ました。 “Share everything!”と言いながら私にお菓子を持って来てくれた生徒もいました。たった1冊の本の言葉で生徒たちがこんなにも変化するとは、私は驚きました。 

 では、なぜ、彼らは変わったのでしょうか。答えは簡単です。「心に響く言葉だったから」です。英語ではあったものの、その伝えたいメッセージは心に響くものだったからです。そして心に響くからこそ、彼らの行動や考え方に影響を与えたのだと思います。そして何を隠そう、彼らの心に響く前に、私自身がこの本に出会い、感激して何度も読んでいたのです。

 これ以降、私は自分の心が動かされるものを題材として、生徒たちに授業をするようになりました。四コマ漫画を使ったり、英語の歌を用いたり、自分で描いたオリジナルの絵を用いたりしました。すると、生徒たちは少しずつこちらを向いてくれるようになりました。そして私が授業に行くと、「先生、今日は何やるの?」とキラキラした目をして聞いてくるようになりました。私が変わり、生徒たちも変わっていったのです。

 私が英語教育に携わるようになってから、約30年間、学校現場の英語教師はプレッシャーにさらされてきました。それは「中学校・高等学校と英語を学んでも英語を使える人間を育成できていないではないか」という批判です。1990年代後半のある新聞社の社説には、「言い尽くされた感もあるが、日本の学校での英語教育には欠陥があり、改善が遅れてきた」とあります。ちょうど20年前の2003年には、文部科学省から、「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」が示されました。近年は小学校に英語が教科として導入され、現在でも「英語を使える日本人を何とか育成したい」という要望のもと試行錯誤の施策が続いています。

 何のために英語を勉強するのでしょうか。なぜ、学校で英語を勉強するのでしょうか。実業高校で英語教師としての経験をした私が実感した答えは、大学進学のためではありません。英語を使えるようになって良い企業に就職するためでもありません。では、なぜ、英語を勉強するのか。それは、生徒たちの人間性を磨き、人生を豊かにするためです。もちろん、英語の力をつけることは大切なことです。しかし、英語のスキルだけ磨いてもダメです。英語がどんなにペラペラであっても、差別的な考えを持つ人間、他人に共感できない人間を育ててはいけないと私は強く思っています。「英語は実用教科である」という意見があります。完全に間違いとは言いませんが、私は少し違和感を覚えます。 「教育」と「訓練」は異なります。学校教育の中での英語教育は実用面のみが重視されてはいけないのではないか、と思います。実用面を磨くのは、語学学校や塾でもできます。しかし、学校の英語教育はそれとは異なります。生徒の心を育む授業を英語を通してするのが、本来の学校の英語教育の役割だと強く思っています。つまり、英語を使える人間の育成だけではなく、その英語を使う人間性の育成を大事にしていくことです。そこに学校教育の中の英語教育の意義が存在すると私は考えます。

①英語は言葉

 私は「英語は言葉である」ということを生徒が感じることのできる授業を目指しています。英語は、自分の思いを伝えたり、他人の発信する大切なメッセージを受け取ることのできる大切な言葉です。言葉で他人と繋がり、思いを共有したり、知らなかったことを学ぶことは喜びに繋がります。その瞬間を多くでも増やしたいので、私は英語で生徒に話しかけ、生徒も英語で反応します。結果として英語で授業をするということに繋がっていきます。彼らの英語で言う意見に対して、私が英語で反応するととても嬉しそうな表情を見せます。もちろん、自分の気持ちや意見を表現するのが苦手だったり、英語そのものが苦手な生徒もいます。しかし、「自分のことを表現したい」というのは人間が本来持つ欲求なのではないかと思います。

 私はまた生徒に対して使う英語には気を付けています。英語で生徒に語りかけるには、生徒がフラストレーションを感じるような英語であってはそもそも内容に興味すら持ってもらえません。授業の中で生徒が聞き取りやすく、わかりやすい英語を使うように努力をしています。ですからteacher talkはすべてスクリプトを書いて用意をしています。そして時間の許す限り、推敲しながら作ります。生徒の英語をよく聞いていると、彼らは教師の英語を真似して使っています。そういう意味でも教師の発する英語には責任がともなうと思います。

②心が動く授業

 生徒の心が動く授業を大切にしています。もちろん、毎時間、そして一度の授業で何度も心が動く必要はないと思います。あまり興味深くもない説明をしなくてはいけないこともあります。でも、教科書の題材1つとっても彼らの心が少しでも動く瞬間を作りたいと思っています。少し工夫をすれば生徒は目を輝かせてくれ、頭を使ってくれます。例えば、教科書の題材に関してはその中に書かれていない内容を提供してみる、教科書の題材に関して生徒の意見を聞いてみる、などです。つまり内容重視の授業にすることが大事だと思います。また私は授業の最初にsmall talkをよく行います。そこでは日常的な話題もさることながら、ニュースのネタを持っていきます。世界で起こることに関して無関心ではいけないと思っています。自分が心に残る時事問題を積極的に生徒に共有し、「私はこういう意見を持っている」「こんな風に感じる」そして「みんなはどう思う?」と意見を聞きます。その時に、私はよく「 “I don’t know.”はダメだよ」と生徒に言っています。提供された題材について、今の自分で考えられることを、とにかく意見として発することが大事だと生徒に伝えています。 

 また神奈川大学の高橋一幸先生もおっしゃっている通り、授業を通して「生徒が質的に変容していくこと」が大事です。質的に変容するにはやはり、心や頭を動かさないといけないと思います。生徒自身がその変化を感じることがなかったとしても、生徒の心が動く授業は結果として生徒が「質的に変容している」ということに繋がります。

③成長し続けること

 私は、教師である前に希望を持ち成長し続ける人間でありたいと常に思っています。少々大げさに聞こえるかもしれませんが、授業は教師の生き方や考え方が反映されるものだとつくづく思います。特に内容重視の授業になればなるほど、教師が何を大切に生きているのかがわかるものです。未来を担う若者である生徒を前にして、後ろ向きで成長を止めた教師はいけないと思います。ですから、日常生活の中でも多くの本や目新しいことに触れ、考え、そして経験する、つまり自分の生活を充実させることは何より大事だと感じています。充実した生活を送る人間は、良い題材に出会え、そして授業がより良いものになっていくと思います。新しいことに挑戦をし、取り入れることに抵抗感がない人は、授業をより良い方向に変化することができます。学会や勉強会にも積極的に参加し学び続けています。

「これがベスト」という授業はありません。私は最後の最後まで「ベストの授業」というものは存在しないのだろうなと思っています。「さらに向上していきたい」という気持ちを持ち続けながら、勉強をし続け、新しいことを取り入れて変化していくことをいとわない教師であり続けたいと思っています。

私は目の前の生徒を見ながら、よく思うことがあります。それは、「彼らがこれから何十年と生きていく世界はどのようになっていくのだろうか」ということです。 気候変動、食糧不足、核兵器、少子高齢化、AIの台頭などが渦巻く時代がもう既にやってきています。先行きが、もやっと濃い霧でかかっているような中を彼らはこれから生きていかなくてはならないのです。自分軸があり変化に対応できる力を持つこと。自らの国や文化を超えて人と繋がることができること。そして希望を失うことなく力強く自分の道を生きていけること。これらが、先行き不透明な時代を生き抜いていかなくてはならない、今の彼らにはますます必要になってくる資質だと思います。そのことを心に刻みながら、私はこれからも授業を磨き続け、生徒と共に成長していきたいと思っています。