新刊書評:『ずっと知らなかった、本当の学び方―自律的な学習者への第一歩』尹 龍貴著 (仮掲載)

四六判並製 240頁 本体 1,700円 セルバ出版

                   布村 奈緒子(東京国際大学教授)

先日、反転授業における「予習」の在り方について論考をまとめた。英語教育の文脈で、教室内での言語活動、事前準備としての予習、個人学習と協働学習のバランス、そして省察(Reflection)の機会という4つの要素を軸に、反転授業を機能させるための枠組みを提示した。学習科学や教育デザインの知見を取り入れながら、生徒たちの実際の学習行動をどう変容させていくかを考え続けてきた教員として、本書を手に取ったとき、私が英語教育で追究してきたテーマが、実はすべての学びに通底する普遍的な原理であったことに気づかされた。

正直に言えば、この本を初めて読んだときの率直な感想は、「耳が痛い」だった。あまりにも的確に、自分自身の学びの在り方を突きつけられたからである。毎年のように年初に「今年の目標」を立てるものの、計画通りに実行できた試しがない。自分は弱い人間だなといつも思っていた。だが、学び続けられないのは、意志が弱いからでも、努力が足りないからでもなく、そもそも「学びとは何か」「どう学ぶのか」という前提理解がずれていたのではないか―本書は、そのことに気づかせてくれた。

「これをやれば必ずできる」からの脱却

 学習法、特に語学学習に関する書籍には、「これをやれば絶対にできる」「○日でペラペラになる」といった断定的な表現が溢れている。しかし、応用言語学や第二言語習得研究の立場から見れば、言語習得は認知的・情意的・社会的要因が複雑に絡み合うプロセスであり、「絶対に正しい方法」など存在しないというのが通説である。本書の優れている点は、まさにその「絶対がない」ことを前提に書かれている点にある。著者は、万人に当てはまる唯一の正解を提示するのではなく、科学的に裏付けられた学習理論や実践を紹介したうえで、学習者自身が自分に合った方法を選び、「自分なりの学び方」をデザインすることの重要性を一貫して強調している。この姿勢は、学習者の主体性や個人差を重視する近年の第二言語習得研究の考え方と極めて親和性が高い。

学習科学の知見と教育デザインの融合

 本書は、心理学、認知心理学、脳科学、教育学、学習科学など、複数の学問領域の知見を、専門性を損なうことなく、しかし非常にわかりやすい言葉で整理している。マインドセット、自己効力感、習慣化、メタ認知といった学習科学の重要概念が、単なる理論紹介に終わらず、具体的な行動レベルのアドバイスへと落とし込まれている点が特徴的である。これはまさに、理論と実践を架橋する教育デザインの好例といえる。

 たとえば、Chapter 2の「習慣化―オリジナル・ルーティン」では、モチベーションに頼らず行動を習慣化すること、目標を「いつやるか」で設定すること、1秒で始められる環境をつくること、if-thenプランニング(「もし○○なら△△する」という条件設定)によって柔軟性を高めること、成長を可視化し自己効力感を育てることなどが書かれている。これらは、近年英語教育の分野でも注目されている「自己調整学習(Self-Regulated Learning: SRL)」の考え方と深く重なっている。自己調整学習とは、学習者が自ら学習を計画し、実行し、振り返りながら次の学習につなげていく力を指す概念である。本書ではこの考え方が、理論用語としてではなく、「やる気に頼らない習慣づくり」や「すぐに始められる環境づくり」、「行動を軸とした目標設定」といった具体的な行動として提示されている。理論を知らなくても、読み進めるうちに自然と自律的な学びに近づける構成になっている点は、教育現場に携わる者にとっても示唆的である。

また、Chapter 3「集中力―時間を最大化」で述べられている、マルチタスクは脳を疲弊させるという視点や、決断の回数を減らすことの重要性は、英語の授業づくりを考える上でも示唆的である。複数のことを同時に求める活動を避け、シングルタスクに集中できる構成にすることや、帯活動のように毎時間同じ形式のタスクを取り入れることは、生徒が学習に向かう際の認知的負荷を軽減する。「脳のエネルギーを大切な学びに使う」という本書の視点は、授業の中で何に時間と注意を向けるべきかを見直す一つの手がかりとなるだろう。

「忘れること」を前提とした学習デザイン

本書が一貫して否定するのは、気合や根性、完璧主義に依存した学びである。必要以上に自分を責めず、努力することを一つだけ選び、達成可能な目標を習慣として積み重ねていく姿勢、そして失敗を前向きに捉えるマインドは、人が学び続けるための重要な土台となる。学習を「頑張り続けるもの」としてではなく、「続いていくもの」として捉え直す視点が、本書全体を貫いている。

本書で特に印象的なのは、「人は忘れるようにできている」という前提に立った学習観である。この点については、エビングハウスの忘却曲線に触れながら説明がなされており、「忘れること」は避けるべき失敗ではなく、学習プロセスの一部であることが繰り返し強調されている。

しかし本書の特徴は、こうした理論的背景を詳しく解説すること以上に、「忘れること」を前提として、語彙をどのように学び直していくかを具体的な学習行動として示している点にある。何度も同じ単語に出会い、使い、思い出すという循環的な学び方が、日本の中高に通う生徒が実践しやすい形で提示されている。

理論を知識として理解するだけでなく、それを学習者自身が実行可能な形で示している点に、本書の大きな価値がある。語彙学習に悩む学習者にとって、「忘れること」を恐れるのではなく、「思い出す回数を増やす」という発想への転換は、学びを継続するうえで重要な支えとなるだろう。そして、このように「忘れること」を前提とした学習観は、結果として学習者の心理的負担を軽減する。語彙や文法を忘れるたびに自信を失うのではなく、それを自然なプロセスとして受け止められるようになれば、学習への抵抗感は大きく下がるだろう。学習を「直線的な成長」ではなく、「揺れ動きながら前進する人間的なプロセス」として捉える視点は、学びの継続を支える重要な要素となる。

「主体的・対話的で深い学び」を支える枠組み

 英語教育の観点から見ると、本書は「自律的学習者(Autonomous Learner)を育てるための理論的枠組み」を提供しているといえる。自律性とは、決して一人で学ぶことではない。本書では、ピアラーニングや外的動機づけを足場かけとして活用する学習法も併せて述べられており、これはコミュニカティブ・ランゲージ・ティーチングや社会文化的アプローチとも深く通じている。こうした学習環境の捉え方は、学習者の自律性・有能感・関係性を重視する自己決定理論(Self-Determination Theory)の視点とも親和的であり、自律的な学習者を育てる英語教育の方向性と一致している。

 さらに重要なのは、本書が「主体的な学び」の実現を、生徒の学習行動レベルで支える視点を提供している点である。主体性は、単に生徒に任せれば育つものではない。Chapter 4で述べられている「自分を正しく知ると、学び方がわかる」という指摘は、メタ認知的な省察を通じて自らの学習プロセスを可視化し、改善していくサイクルの重要性を示している。

 また、本書では、「対話的な学び」を促進する具体的な学習技法も紹介されている。たとえば、ファインマンテクニック(学んだ内容を誰かに説明する)は、まさに言語のアウトプット活動そのものである。アクティブリコール(1日あったことを思い出してノートに書く)は省察の実践であり、Visual Learning(図やイラスト、マインドマップで視覚化する)は情報の整理・定着を促す。これらは、英語の授業で行われるペアワーク、ふりかえり、マインドマップ作成といった活動と本質的に同じであると私は考える。本書は、こうした学習技法が単なる「やり方」ではなく、「考えた分だけ学びが深まる」というアクティブラーニングの本質につながることを明示している。

 また、「すべてを一気に変える必要はない」「1つでいいから心の片隅に置いてほしい」という著者の姿勢は、教育的にも極めて妥当であり、学習者の現実に寄り添ったメッセージである。生徒の学習行動を観察していると、小さな成功体験の積み重ねが、やがて大きな変容につながることがわかる。本書は、そうした変容を促すための具体的な手立てを、教育デザインの視点から丁寧に示している。

おわりに

 本書は、自律的な学習者を育てたい教育関係者、学習に悩む子どもを支える保護者、そして学び続けられない自分に違和感を抱いている学習者のいずれにとっても、「学び続けるためのヒント」を与えてくれる一冊である。特に、「主体的・対話的で深い学び」をどう実現すればよいか悩んでいる教員にとって、本書は生徒の学習行動を具体的にデザインするための羅針盤となるだろう。

 言語習得と同様、学び続けることにも唯一の正解はない。大切なのは、効果的とされる方法を知ったうえで、自分に合ったものを選び、省察を通じて自分なりに「学びをデザインする」ことである。そのことを、学習科学の知見とともに示した本書は、英語教育に携わる者にとっても、必読の一冊である。

 さて、本書を読了後、私も1つ「いつやるか」を明確にして目標を立ててみた。60日間継続できれば「習慣化」したと言えるだろうか。小さな「成長実感」を感じながら続けていきたい。(いつもは「3日坊主」ならぬ「1日坊主」の私が、今のところ5日間継続できているのは、少しは成長できているということなのかもしれない。)

                                                  (ぬのむら なおこ)