グローバル化における英語教育 第3弾: 「我が国における報道の自由度と大学英語教育」

飯塚秀樹(獨協医科大学准教授)

本シリーズの第1弾「グローバル化における英語教育についての一考察 文法訳読法・翻訳教育の再考」の中で、我が国における報道の自由度について触れた。繰り返すが、国際NGO国境なき記者団による報道の自由度ランキングによると、2023年における日本の順位は68位となり、これは主要7カ国の中で最下位となっている。昨今のBRICSやGlobal Southの影響力を考えると、もはや主要7カ国という概念も何が「主要」なのか曖昧になるが。国境なき記者団は日本の報道の自由度が低い理由として、「ジャーナリストが役割を十分に発揮できていない」と指摘する。

私たち国民にとって情報は命であり、報道の自由度が低いというのは、バランスの欠いた民意が形成され、社会が一方向に流れやすくなる危険性を孕む。私は大学教員として、常に情報を客観的に精査し、それを抽象化・言語化することを試みている。それが職務であるからということだけではなく、1人の責任ある者として、そして将来のある若い人々に日々接する者として、当然な事をしているように思う。しかし、そのプロセスの始まりとなる情報が何かしらの都合で表に出てこなかったり、利益相反などで歪められていたりすれば、それは私たちにとって大変不都合なことになる。しかし、私のような英語教員にとって、そのような問題はある程度回避可能とも言えるだろう。というのも、日本で報道されない情報も英語圏の様々なメディアからリアルタイムで入手することができるからだ。X Corp(旧Twitter)の執行会長兼CTOであるElon Musk氏が free speech is the backbone of democracy(言論の自由は民主主義の基盤)と述べているように、市民はこれまでに多くの犠牲を払い、民主主義を確立し、そして言論の自由を守ってきたはずだ。それが今、我が国の報道の自由度は2010年の11位から、2013年には53位、2014年に59位、そして現在は68位と、その間若干の上昇が見られた年もあるが、全体的に大きく順位を落としている。そのような下降に伴い、日本国内で放送されている内容と、例えば米国FOX NewsやSky News Australiaなど、外国メディアが放送している内容との間に乖離している部分が散見される。

先日、社会人対象に英語教育についての講座を担当する機会を得た。参加者は基本的に我が国の公的・私的機関において近い将来英語教員として活躍するだろう。しかし、前述の乖離している部分の情報、つまり日本のMain Stream Media(MSM:大手メディア)が報道していない内容について聞いてみると、参加者の9割以上が情報を持ち合わせていない。私がそういった類の話に言及すると、気分を害してしまう参加者もいた。それも仕方のない事なのかも知れない。国内のMSMでは一切報道されず、それ以外の情報源を持たない人々にとっては根拠の掴めない内容なのだから。しかし、英語を学習しようと思う第一の動機は、外の世界の情報や、未知なる世界を知りたいということではなかったのだろうか。報道の自由度が68位という日本社会の中で、MSMからの情報のみで健全な判断は下せるのだろうか。大切な人を守れるのだろうか。教育は成り立つのだろうか。様々な疑問が脳裏をよぎってしまう。

さて、英語にstreet-smartという言葉がある。辞書で意味を調べると、「都会で生きていくための知識」だけでなく、「身を守るための知識」、「抜け目なさをもつ」などの意味も紹介されている。その反意語は book-smartとなり、「学識はあるが常識に欠ける」となる。私たち教員はこれからの日本社会を支える学生を育てるために、もはやbook-smartでいるだけでは許されない。国家間の利害関係が複雑に絡み合うこのグローバル化された世界で生きぬくには street-smartさも持ち合わせる必要がある。いや、情報にある種の規制がかけられた今となってはstreet-smartさがより重要になるだろう。Statistaの資料1) によれば、世界における検索エンジンのシェアは2023年の時点でGoogleが83.49%をも占めているという。この点について、米国の法律家・弁護士集団から成るSmith Jadin Johnson PLLC2) は次のように警鐘を鳴らしている。

 “With a few large companies controlling a significant portion of the internet, there is a real fear that these companies have the power to shape and control the information that we access.”  (少数の大企業がインターネットのかなりの部分を支配しているため、これらの企業が私たちのアクセスする情報を形成し、制御する力を持っているのではないかという大きな懸念がある。)

さらに、StatCounterからの2023年の資料3) によれば、日本における検索エンジンのシェアは一位がGoogleで76.98%、二位がYahoo Japanの14.43%、そして三位がBingの7.51%となっている。Yahoo Japanは2023年現在、Googleの検索エンジンシステムを使用しているため、日本国内においてはGoogleが実質91.41%にも及ぶインターネット上の情報をコントロールしていることになる。以上のことを鑑みれば、報道の自由度が下降傾向にあるこの日本社会において、私たち英語教員は語学力を活かし、テレビや新聞そしてGoogleも含めたMSM以外の情報源にも積極的にアクセスし、情報を多角的にそして批判的に分析する責任を負っていると言えるだろう。そして、そこから得られた知見を学生や周りの人たちに分かりやすく伝えることも、テキストや学問領域を比較的自由に選べる私たち大学英語教員に課された大切な使命ではないだろうか。         

私の所属する医科大学では、年々増えゆく医療情報に押し出されるかのように、リベラルアーツ系科目が圧縮されていく。学生たちもその流れから外れるような思考は持たないというか、持つ余裕がない。将来、人の命を守る医療系学生ほどリベラルアーツ系の科目からstreet-smartさをぜひ身につけて欲しいと私は切望するが、医学部という構造が、そして医学部生たちがそれを許さない。さらに、医学だけでなく他の学問を専門とする教員の多くも、いわばMSMからの情報を基盤に研究を進めているようだ。先日参加した学会でも「ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まって以来…」、「気候変動…」、「性教育絵本の英日翻訳…」等々の文言を目にした。正直なところMSM以外の情報にも常にアクセスしている私は、そのような文言を目にする度にとても複雑な気分になる。まるで世の中がある固定的narrativeに沿って展開されているのではないかと。だがこのような感覚に囚われているのは決して私だけではないだろう。東京大学大学院の藤垣教授は、科学的知見は時々刻々と現在進行形で形成され、常に書き換えられる可能性を持つ4) と指摘する。これは「作動中の科学」と呼ばれ、研究に従事する者であれば多くがそれを経験しているはずだ。英語教育の世界でも、文法訳読法や型の体得を主とするAudio-lingual Methodなど、かつての主流を占めていた指導法は、新たな知見や理論に打ち勝つことができず、現在ではコミュニケーション中心の指導法に置き換わってしまった。しかしながら、それも時の変遷と共に再び変化する運命にあるのだろう。社会を広く見渡せば、作動中の科学は理系的学問領域だけに起こるのではなく、私たちの身の回りでも常に起きていることなのだ。私たちが進歩を続ける限り。それに対し、前述の固定的narrativeはそのような「作動中の科学」を止めてしまいかねない。多くの人々は「作動中」ということを忘れ、科学は常に正しく、書き換えられることはおかしいと考える傾向にある。しかし、藤垣教授によれば、それは「書き換えられることへの耐性がない」と指摘される。科学は常に書き換えられる対象なのだ。報道の自由度の低下はopen and fair discussion(公平かつ公正な議論)の機会に制限がかかることは容易に想像できるだろう。そしてそれは固定的narrativeをさらに強め、科学の本質とも言えるその作動を止めてしまう。だからこそ、私たちは様々な情報を手に入れる必要がある。科学や知識をさらに前進させ、新たな一歩を踏み出すために。

先日、講義中にバブル経済の話になり、その時代の例として80年代のコカコーラのCMを学生たちと視聴した。密になるのが普通のことで、誰ひとりマスクなど着用せず、携帯電話もなく、仲間と一緒に皆が自由を思いっきり謳歌しているように見えた。ふいに2020年初頭からの感染症や、その対策で変わり果てた今日の日本の姿が重なると、講義中にも関わらず胸がつまり目頭を押さえてしまった。気づけば心配そうな顔をした学生たちがこちらの様子を窺っていた。まさに今、この瞬間でも私たちは感染症対策という科学において「固定的narrative」と「作動中の科学」のせめぎ合いの渦中にいるのかも知れない。

私はモーターサイクルでの旅が好きで、学生時代、テントを積んで東北から北海道をくまなく旅をした。1990年代初頭のことだ。当時、バイク用のナビゲーションシステムは存在しておらず、道に迷えば路肩にバイクを止め、地図を眺め、現地の人々からの情報や、遠くに見える山々や、太陽や星の位置からおおよその方角を割り出し目的地へと向かった。雨に降られ、明るい空の方へ逃れようとすると雲の切れ目でさらに雨が強くなることも学んだ。北海道で日没後に野営をする時などは、同じ方向に向かうライダーを見つけ、熊対策として一緒にテントを設営したりもした。携帯で何でも調べることができてしまう今とは異なり、そこにはコミュニケーションがあり、方向感覚も今よりずっと研ぎ澄まされていたように思う。インターネットなど使えない時代であったからこそ、誰もが外に出て人と会い、コミュニケーションを図り、street-smartさを身に付けなければ生きていけない時代でもあったのだ。中学校や高等学校の外国語学習指導要領に「コミュニケーション能力の育成」と書かれて久しいが、コミュニケーションの基本は、外国語であれ、母語であれ、やはり外に出て人と会うことだろうと改めて感じる。大学になると学習形態も多様化し、特に最近では、アプリやAI、そしてオンライン上のゲームからもコミュニケーション能力を高めることは可能だと、ある人々は主張する。確かに企業間のやり取りの多くが電子メールを介して行われ、会議などもインターネット上で展開される現在、バーチャル空間でのコミュニケーション能力も大切なのは言うまでもない。そしてそのようなオンラインに即したコミュニケーション学習も今では必須なのかも知れない。しかし、私たち研究者が参加する多くの学会が現在、オンラインから対面に戻ってきているように、対面の魅力は私たちが社会生活を営む人間である以上、消えないだろう。そこには予期せぬ出会いがあり、そこから予期せぬ情報を入手できることもあるのだ。それは実際の書店で本に出会うことと似ている。ネット上で本を購入する場合、自分が欲しい本のタイトルや作家名を直接入力して本を探し出すが、その際、予期せぬ書籍との出会いはなかなかない。せいぜい購入しようとしている本と同じ属性のものが関連書籍として表示されるくらいだろう。しかし、リアルな書店に一歩足を踏み入れれば、そこには店員お勧めの本が並べてあったり、カラフルな表紙に惹かれ、たまたま書籍を手にすることもあったりと、私たちの固定しがちな世界観を広げてくれる本との出会いがある。そういった本が私たちのパラダイムを別の次元に引き上げてくれることもあり、そのような本との出会いからstreet-smartさを身につけ、科学を作動させることも大いに有り得るのだ。

さて、前置きが長くなってしまったが、グローバル化における大学英語教育という本題について考えてみたい。最近、世界的な研究者や、経験豊かなジャーナリストからの発信であっても、ある固定的narrativeに相反する見解はMSMでは報道されない傾向にある。それは医療の世界でも例外ではない5)。この資料5)に挙げた論文はMinervaというpeer-reviewed(査読あり)の国際学術誌に掲載され、PubMedにもインデックスされているものであるが、そのAbstract(要約)の英文に一度目を通してみて欲しい。グローバル化における大学英語教育ということを考えた場合、最終的な到達点となる英語読解力はこのレベルに置くべきなのかも知れない。参考までに、このAbstractの英文難易度をFlesch Reading Ease (FRE)6) で計測するとその値は15.5となった。FREは難易度が高ければ高いほどその数値は低くなる。試しに英検1級や英字新聞から任意のパッセージを選び、それらのFRE値を計測してみたところ、それぞれ33.6と34という値が得られた。FRE値15.5の難易度がイメージできただろうか。当該文献は専門用語が散りばめられた論文であり、一般の読者を対象としたものではない。従って、必然的に難易度は高くなる。しかし現在ではAIを使った自動翻訳機もあるため、まずはそれらを駆使しながら、自身の専門に関する論文に目を通し、徐々にそのレベルの読解力を身につけていくことをお勧めする。そして読解力の獲得や内容理解と同じくらい大切なことは、学問や社会を取り巻く世界の潮流、あるいはそのダイナミクスを、よりマクロ的な視点から概観し、それに関するリテラシーも少しずつ磨いていくことだろう。前提や立ち位置を把握していなければ、世界の人々との対等なopen and fair discussionは成立し得ない。この論文はそのような潮流やダイナミクスを感じさせてくれる貴重な文献と言える。そこからの主たるメッセージは “censorship and suppression of scientific dissent has deleterious and far-reaching implications for science(科学的反対意見の検閲と抑圧は科学にとって有害で、広範囲にわたる影響を及ぼす)”ということだろう。このような事実を把握していなければ、誤った方向に研究は進み、到底真実には辿りつけない。私たち研究者はそのような検閲・抑圧された文献にも目をとおし、「作動中の科学」を止めてはならないのだ。学生たちにも「情報」のあり方自体に最大限の注意を払って欲しいと思う。それを促す際にやはり頼りになるのが、報道の自由度ランキング上位の国々からの情報や、独立系メディア、そして個人発信を精力的に続けてくれる研究者、ジャーナリスト、インフルエンサー達の存在だ。彼らの発信する情報に触れていると、報道の自由度68位の意味するところが理解できるようになるだろう。

デジタル社会に移行し始めた当初、Digital Divideという言葉が頻繁に語られた。それは情報通信技術(Information and Communication Technology) を使える者とそうでない者との間に生じる経済的格差を指す言葉であった。では、今の世相を表すものとしてどのような言葉が適当だろうか。それはEnglish plus Media Divideと言えるかも知れない。つまり、英語が使える者とそうでない者、かつ、既存のテレビや新聞、大手検索サイトなど、いわゆるMSMが発信する情報のみにアクセスする者と、それ以外の情報にもアクセスできる者。これら2つのグループ間に生じる情報量格差だ。グローバル化が指数関数的に、時に暴力的に進み、世界情勢が極めて不安定になっている現在、その格差や、そこから生じる分断をただただ傍観している場合では決してなく、それらを情報から得た知識に基づき解消していくものが「グローバル化における大学英語教育」と言えるのではないだろうか。

W3Techs Web Technology SurveysのHistorical trends in the usage statistics of content languages for websites 7)(インターネット上のコンテンツで使用されている言語)を見ると、第一位は英語による情報で、それは全コンテンツの53.3%をも占める。第二位のスペイン語でさえ5.3%と一桁台で、第六位の日本語になると4.0%に過ぎない。つまり日本語の情報のみに依存する人々と比較し、英語にアクセスできる人々は約13倍も多い情報量の中で生きているのだ。さらに、日・英両言語にアクセスできる人となれば、日本語のみの情報量との比率は57.3対4.0にもなり、その差は実に14倍に達してしまう。それらの情報は動画を介した場合も多いため、内容把握のためにはリアルタイムで英語を理解するリスニング力も必須となる。以上のことを鑑みると、グローバル化における大学英語教育とは第1弾、第2弾で述べてきたものに加え、1)MSMだけでなく、それ以外のメディアからの英語情報にも積極的にアクセスさせること、2)自身の専門に関する英語論文読解にも徐々に取り組ませること、3)世界の有識者やジャーナリストから発信される情報をリアルタイムで理解する英語リスニング力を獲得させること、そしてそれらの情報をマクロ的視点から吟味し、3)世界の潮流を捉えつつcritical thinking skillsやstreet-smartさを徹底的に養成すること、と言えるかも知れない。このグローバル化された世界にあっては、他国の問題も一瞬の内に我が国に降り掛かってくる。相互依存度が高まるこの世界で生き抜くためには、このレベルの語学力は欠かせない。つまり、English as a Foreign Language (EFL)環境下の学習者向け英語教育から、English as a Second Language (EFL)のような実際に「使える英語力」への転換が求められているのだ。「大学英語教育」であれば、それ位の英語力を学生たちに望んでも問題ないだろう。世界の人々と情報をリアルタイムで共有するために。

最後に、情報を希求する人々が多用するMSM以外の英語系メディアプラットフォームを幾つか紹介したい。固定的narrativeを超える情報の発信者は、RumbleやSubstack、そしてGettrに流れていく場合が多い。そこはまさに検閲フリーの玉石混淆状態であるが、第一線の研究者やジャーナリスト達が必死に情報を発信してくれていたりもする。X(元Twitter)も大変有益なプラットフォームであるが、そこからTruth SocialやTelegramに発信の場を移している研究者・ジャーナリストも多い。気になるニュースがあれば、ぜひ一度MSMだけでなく、これらのプラットフォームからの情報にも目を向け、客観的に情報を分析してみて欲しい。日本語の情報のみに依存している人々が無防備にそこを訪れると、価値観が崩壊し、途方に暮れてしまうこともあるかも知れない。しかし、それこそがEnglish plus Media Divideにおける情報量格差なのだ。勇気を持って一度その荒れ狂う情報の海に飛び込んでみてはいかがだろうか。そこには同じ問題意識を持ち、情報の質に徹底的にこだわる勇者がいる。その勇者に共感を覚えたなら、あなたは二度とMSMの情報のみに頼って生活することはできなくなるだろう。

大切なことは、上記メディアプラットフォームからの情報がすべて正しいとか、すべて誤っているとか、そのように物事を断定的捉え、情報を遮断しないことだ。それらのプラットフォームは私たちにopen and fair discussionの材料を与えてくれているのだから。社会情勢が緊張感を増し、不安定になっている最中、平和を望まない者などいないだろう。このような時代だからこそ、私たちは積極的に「外」に出て、能動的に「知る」ことからはじめ、一人一人が行動をしなくてはならない時に来ているのかも知れない。「作動中の科学」を止めないために。そして、いつか見たどこまでも青く澄んだ空を取り戻すために。

【参考資料】

1)https://www.statista.com/statistics/216573/worldwide-market-share-of-search-engines/
2) https://sjjlawfirm.com/big-tech-censorship-86/
3) https://gs.statcounter.com/search-engine-market-share/all/japan
4) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsrpim/36/2/36_108/_pdf
5)https://link.springer.com/article/10.1007/s11024-022-09479-4
6) https://readable.com/readability/flesch-reading-ease-flesch-kincaid-grade-level/
7) https://w3techs.com/technologies/history_overview/content_language/ms/y